インタビュー

木村 チヅ子さん

木村 チヅ子さん

(きむら ちづこ)

インタビュー日時:2007年08月17日

卒業:1973年厚生女子学院卒

所属:慶應義塾大学病院

肩書:看護部長

経歴

青森県生まれ。現在、慶應義塾大学病院看護部長。
長年にわたり慶應義塾大学病院における看護に携わり、リーダーシップを発揮。
著書に「周手術期看護ガイドブック(中央法規出版)」、「まかせて!?夜勤まんがでリハ−サル(中山書店)」などがある。

看護学生時代の思い出

 学生運動の盛んな頃でした。政治運動に一生懸命になり学校に来ないクラスメートや、中には勾留されたり、自主的に退学する人もいました。70人程いた同学年のクラスメートが60人程に減って、優秀な人から欠けていったように思います。そういう時代でした。非常に残念な思いで退学したのではないかなと思います。学校の授業は、医学モデルをベースにしたカリキュラムでした。教えて下さった医師は人格的に優れた方が多く、看護学の講師も看護に対する前向きで真摯な取り組みを語ってくれる先生が多かったです。

なぜ看護師に?

 女性の大学の進学率は高くなかった時代です。職業としては薬剤師、弁護士、教師のように「し」の付く、手に職を持ち自立ができる職業を考えていました。一方で、私は学校で勉強する事と、将来の職業とが結びついていませんでした。何故高校に入学したばかりなのに大学進学に向けて勉強しなければならないの、と思っていました。高校の保健室で養護教諭と話している時に、「保健師という仕事があるよ」という話になり、保健師は看護師の資格が必要だから看護学校に入ろうと思ったのがきっかけです。

 自分のしたい事が見えてきたのは、看護実習の時です。保健所の実習もありましたが、病院で看護師をする事にやりがいがあるのではないかと思うようになりました。患者を通して見える人間の多様性とか不可解さ、不条理なことなどに興味を感じたのです。また患者が亡くなる時に必ずしも家族が側にいるわけではなく看とりが看護師に任されている、職業として崇高なことだと思いました。

看護師不足に疑問を持つ

 就職すると看護師不足という問題に向き合うことになりました。看護師が足りない状況で、採用してもすぐ辞めていく看護師が多く、看護師を養成する学校も、看護学生を指導する先生も不足していました。就職して1,2年間で看護師が総入れ替えという状況もあった程です。どうして辞めなくてはならないのだろうと思いました。その当時は社会の看護師への社会的評価が偏っており、教育水準は高学歴ではありませんでした。患者さんに「看護師は忙しくてワサワサしているから、がさつにしか対応できないんだ」と言われた時は本当に辛かったです。「病棟の看護師が患者のニードを汲み取ってくれない、看護師は決めたことをこなしている」と言いたかったのです。その通りだなと思いました。言われないと分らない自分が嫌で就業意欲が削がれました。

病院を退職

 看護職としてどうあるべきか、職業としての看護師のあるべき教育はどうあればいいのか考えていました。学生時代の仲間と他病院の看護師と一緒に立ち上げた看護問題研究会でも、何故看護職は不足し、定着しないのか調査したりしました。「臨床にいてもその答えは見つからなさそうで、自分はこのままでいいのかな、もう少し勉強した方がいいかな」と迷い病院を辞めました。母が病気になり休むことのできる職場ではなかったという理由もあります。

 再就職するまでの3年間は、色々なことをしました。田舎で産休に入る看護師の補充として臨時で働いたり、母の具合も良くなった頃、友人がカナダのバンクーバで日本からの観光客を対象とした透析センターを作るから一緒にやってみないかということで、これは面白いわと、学生ビザをとって行きました。透析センターの方は、渡航した途端、作るのは非常に難しいというのが分かって、それで実現性は無くなりましたが、1年カレッジに通って、英語と人類学を勉強しました。スキーなど遊びもたくさんしました。ビザの更新ができないこともあって約1年で帰国し、帰国後は企業の医務室で働き、そうこうしているうちに、慶應義塾大学病院に勤めたらとアドバイスを貰い再就職することにしました

GICU始動!

 看護師になった頃に言われた患者さんの言葉を胸に、どんなに忙しくても患者さんにがさつな対応はしないよう気をつけました。看護職員には丁寧なケアを心がけて欲しいです。また、仕事を継続するにはいろんな困難がありますが人のせいにしたり、解決を病院組織に依存するのではなく、自分自身が考え、困難を切り開いていくようにしています。

発達モデルを完成

 教育担当師長になって、現在の発達モデルを作りました。看護師の定着率は高くなってきましたが、相変わらず毎月採用がありました。何故辞めるのか、辞めた人500人にアンケートを配布して300人程から返事をもらいました。理由は多様ですが、一つにはリーダーシップがとれる人を育て、牽引してくれる人がいれば、変わるのではないかという事がありました。又、職業として一人一人のキャリアを考えて、一人一人が職業的な発達に責任を持たなければと考えました。病院や福利厚生への不満で辞めることは避けたいと思いました。そこで、発達モデルを考え導入させました。看護師一人一人の専門職としての自覚、関心領域や能力を広げていきたいと思っています。離職率は14%から11%に下がり、大体落ち着いてきました。職場の尊敬できる上司や同僚の存在が職務満足に肯定的に作用して新卒者を含め定着が良くなっています。リーダー研修では、現場で解決できることと組織で解決することなど問題解決思考をしっかりと身につけていけるよう展開しています。手ごたえを感じた教育担当師長としての7年間でした。

看護医療学部の立ち上げに携わる

 臨床現場での実践を希望し病棟に異動しました。その時は看護医療学部を立ち上げるという時期で、カリキュラム委員を兼任しました。看護教育は内容、時間とも不足で、それを大学教育の中で可能にすることを目標としました。医師による看護教育ではなく、看護としての教育、看護学とはいったい何なのかを明確にした教育体系にしたいと考えました。看護師に必要なのは、解剖生理は否定しませんが、医者による医学をベースにしたカリキュラムではないものを提案したいと考えました。文学や法律も学びます。資格を習得することにこだわらなくてもいいのではないかと思っていましたが、看護の学校としては、国家試験もあり、必修のカリキュラムなどなかなか制約がありました。

看護部長になって

 一年間病棟師長とカリキュラム委員を兼任し、翌年、看護部長に就任しました。病棟師長として自分が作成に携わった発達モデルを実践し、現実と整合性のある看護実践の教育を行うチャンスだと思っていたので、1年で病棟を異動するのは残念でした。

 医療法改正は、1992年から特定機能病院やDPCなど病院環境に変化を及ぼし、政策によって医療提供体制が変化しています。医療変化を見越した病院としての体制がない為に事故につながっている側面があり、自分も首の皮一枚でつながっていると感じる時があります。看護部全体の責任を考えるときに、スタッフ自身が医療事故を起こすのではという不安を抱えて仕事をすることは避けなければなりません。安全性や安心をキーワードに人員増や環境整備などを交渉しますが、財政を理由に実現に至らないことが悩みです。変化に追いつくだけでなく先取りしてマネジメントする重要性を強く感じています。

広がる慶應方式

 昨年、JAICAの活動でフィジーを中心に南太平洋の看護師さんのフォローアップ研修に参加しました。そこでは感染予防活動にリンクナースを導入するという、慶應方式が実践されていました。以前慶應義塾大学病院に研修にきた際に学び、帰国後導入したのだそうです。発展途上国ではしたくても出来ない事がたくさんありますが、リンクナースを育成・活用して感染予防の効果をあげていました。違う国の人にも効果をもたらしている事を嬉しく思い、慶應のスタッフとしての誇りを感じました。

今後に期待すること

 この3、4年で、日本の看護教育が高学歴になり大卒の人が増えてきました。今までの3年教育にプラスされた1年は計り知れない1年で、このような人材を受け入れていくことで、看護の可能性は広がっていると思っています。技術的には就職してから始めの一年間は苦労する人が多いですが、そこを乗り越え、現場を大きく変化させて看護を発展させていって欲しいと思っています。

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