インタビュー
服部 絵美さん
(はっとり えみ)
インタビュー日時:2021年05月29日
卒業:1996年短大卒
所属:白十字訪問看護ステーション
肩書:訪問看護師
看護師を目指すきっかけ
私は幼い頃から看護師になることが夢で、小学校の文集の「私の夢」にもそう書かれています。親族に看護師はおらず、何をきっかけにそう思ったのかわかりません。ただ幼い頃、「キャンディ・キャンディ」をテレビで観ていて大好きになり、そのおもちゃセットに聴診器が入っていて、それで遊んでいたのはうっすらと記憶にあります。中学生になり、少しでも早く看護師になりたいと普通科の高校ではなく看護科のある高校を選択しようと迷っていました。その時の恩師が、まずは広く学び好きな部活もして、それから看護を目指す学校に入っても良いのではないかと勧めてくれたこともあり、普通科の高校を選びました。結果的にはその高校で野球部のマネージャーになり、3年間ほとんど休みもなく甲子園を目指す日々に明け暮れるのですが、裏方として誰かをサポートすることの楽しさを教えてくれた日々だったと思っています。
慶短での日々
慶應義塾看護短期大学に入学した後は医学部の三四会野球部に入り、野球部のマネージャー中心の毎日でした。車の免許を早々に取り、野球部の試合や合宿には他のマネージャーを乗せて茨城や福島も行きました。一番の思い出は東医体(東日本医科学生総合体育大会)で優勝したことです。高校生活に引き続き、野球一色の大学生活の反面、看護学生としての成績は散々たるものでした。今、訪問看護師として活動する中で、解剖学や生理学などの大切さを身に染みてわかるので、あの頃が悔やまれてなりません。結局、看護師免許を取ってから患者さんを通して、学び直しをさせて頂いたのだと思っています。
そんな学生時代の看護の1番の思い出は、実習です。机上での成績が悪かった私も、病棟や地域に出て学ぶ実習は大好きでした。患者さんから頂いた情報から全体像を捉えアセスメントし、見える化するために関連図を書き、そこから必要な看護実践を導きだす、看護過程の基礎を学びました。訪問看護師として利用者を目の前にした時、今も私の頭にはその方の関連図が浮かび、「この方にとって最善な看護とは何か」を自分に問いかけています。慶短では看護の原点を教えて頂きました。また、福澤諭吉先生の「独立自尊」も私が物事を考える上での土台となっています。
病院勤務から地域で活動する看護師を目指すまで
卒業後は慶應義塾大学病院に就職し、呼吸器内科・外科混合病棟に勤務し、外来にも出ていました。その中で20~30代のがん患者さんの看護に携わることがありました。肺癌の治療の第1選択は手術、再発をしてしまった場合は入退院を繰り返しながら化学療法、という外来化学療法はない時代でしたので、入退院を繰り返しながら多くの時間を病棟で過ごします。
今でも思い出す患者さんは30代で肺癌の男性の方です。私が外来に出ている時に肺癌の告知を受け、病棟で担当させて頂く中で手術、術後の化学療法、再発してからも化学療法を繰り返し、治療ができなくなるまで続きました。予後の告知の時も同席させて頂き、その方の奥様と一緒に涙を流しました。そして看護師としての自分に無力感を感じていました。ご本人と奥様、お子さんにとって大事な時間なのに、ほとんどを病院で過ごしていいのだろうかと感じていましたが、その頃の私には癌のターミナルの方が自宅で過ごすというイメージが全くありませんでした。なるべく病院で心地良く過ごして頂こうと、苦痛のコントロールと同時に奥様やお子様と過ごす時間を多く取って頂くようにしました。ご本人の大好きなヤクルトスワローズや経営していたスナックでの楽しいお話をたくさん聞き、どういう人生を歩んでこられたのかも教えて頂きました。そして亡くなられた後に、奥様に会う機会がありました。奥様は自分の仕事を辞めご本人が大事にされていたスナックを引き継いでおられ、笑顔で話す奥様の姿に私自身が励まされたのを覚えています。
その後まもなく私は病院を辞め、大学の看護学科に編入しました。看護師として今後は地域で働いていきたいと思った時に、保健師の資格を取得しようと思ったからです。3年次に編入しましたが、慶短での単位がほとんど認められ、3年次はほぼ実習のみでした。そこで初めて訪問看護実習に行くことになり(慶短の時は保健師の在宅訪問への同行)訪問看護ステーションという存在があることを知りました。4年生になり、地域で暮らす高齢者をテーマに卒論を書いていた時に、指導教員より白十字訪問看護ステーションが職員を募集しているのでアルバイトしてみないかと勧められ、現在に至ります。
白十字訪問看護ステーションに就職して
看護学生兼非常勤の訪問看護師としてスタートしたのですが、最初は驚くことばかりでした。保助看法における看護師の業務として定められている療養上の世話と診療の補助の中で、特に療養上の世話については訪問看護師の裁量に任されています。訪問看護指示書には包括的な指示があるだけで、リハビリや褥瘡のケアなどについても、利用者の状況や意向を踏まえどのような処置やケアが必要かアセスメントし、医師に伝えディスカッションをしながら決めて実践することが多くなりました。特に治療の選択においては、病院勤務時は医師が決めたことをサポートする立場が多かったのですが、今は医師と共にその利用者にとって何が最善か考え、一緒に選択肢をお伝えしていきます。今、盛んに言われているACP(アドバンス・ケア・プランニング)は利用者本人の価値観や気がかりなことを多職種チームで伺いながら、将来の医療やケアについて話し合うプロセスを繰り返し、自己決定を支援していくことですが、私たちの中では以前からごく自然に行われていたことだと感じています。
非常勤で訪問看護師を続けながら大学院でも地域で過ごす高齢者を研究テーマにし、修了後の2006年より常勤として働き始めました。2009年からは所長として、私自身が大好きな訪問看護を職員に伝えること、そして自分のステーションだけではなく、広く地域で活動する看護師を増やすことも目標としています。私達が活動している新宿区は訪問看護ステーション同士の連携も活発でステーション数も順調に増えていますが、定期的に情報交換をしたり、共に勉強会をしたりして学びを深め、どのステーションも質の高い訪問看護を提供できるように取り組んでいます。「訪問看護を必要とする地域住民の方全てに訪問看護を届ける」ことを合言葉に、訪問看護の利用によりQOLの向上や療養生活においての成功体験を感じて頂けたらと思っています。
当ステーションでは開設当初から「在宅ホスピスケア」に取り組み、最期まで自宅で暮らしたい、最期まで自分らしく過ごしたい方の支援をさせて頂くことが多くあります。ターミナル期においてもその方に合った適切な医療・ケアが提供されることにより、最期にとてもきれいな身体と穏やかな表情で旅立たれます。過剰な医療はかえって本人に負担になることが訪問看護を始めて初めて知りました。生ききる過程をご家族と共に支援させて頂き、看取ったご家族も大切な人との別れは辛いけれどやり切った充足感もあり、そして新たな一歩を踏み出す、人間の強さを感じられる瞬間です。
これからについて、そして皆さまへのメッセージ
現在、活動する新宿区の牛込・四谷地域を中心に、訪問看護から発展した形として地域で相談支援を行う「暮らしの保健室」や看護小規模多機能型居宅介護「坂町ミモザの家」も行っています。訪問看護の実践を続ける中で、予防からの関わりの大切さや訪問看護の点と点を結ぶ支援から通所や宿泊も含めた面での支援の必要性を感じ、新たな事業展開につなげた形です。赤ちゃんから人生の締めくくりまでまるごと支援できる、これからもこの地域に根差し少しでも貢献していきたいと思っています。
訪問看護は、疾患や障害を抱えながら生活する利用者の「その人らしい生き方や暮らし」を看護の視点で支援する仕事ですが、そこには自らの看護観、今まで生きてきた人生や経験・感性などが大きく影響します。以前は臨床経験最低5年なければ訪問看護師にはなれないと言われていた頃もありました。しかし、療養者の生活や生き方を大切にするということは学生の頃から学んでいることであり、私はステーションで丁寧に育成する環境があれば新卒からでも訪問看護師になれると考えており、当ステーションでも新卒を採用しています。むしろ病院経験が長ければ長いほど、ひとりで訪問するということに怖さがある看護師が多いように感じます。訪問看護はひとりで訪問し、全てひとりで判断すると思われているかもしれませんが、ステーションの仲間だけではなく多職種を含めたチームで看ているので、より良い連携を図ることで力強いサポートを得ているのを感じています。
疾病や障害を抱えていながら自宅で暮らしたいと望んでいる方は多くいます。国の施策というだけではなく、自宅で暮らす人々の支援にはもっと地域で活動する看護師が必要です。訪問看護師になりたいなという皆さん、今はインターンシップ等を導入しているステーションもありますので是非体験して頂き、訪問看護師の第1歩踏み出しませんか。
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